イダヒロユキさん

○「性的マイノリティ」が提起するもの―ホモフォビアジェンダーフリー・バッシング

性染色体、性腺、内性器、外性器、誕生のとき医者が決定する性、戸籍の性、二次性徴、性自認、服装や態度や振る舞いや話し方などのスタイル、性的指向、性的欲望スタイル、性に基づいた生活スタイル・性役割、性に基づいた人間関係のあり方など、多様な側面からなる性の多様性は、「性」が「男」と「女」の2つだけではなく、本当に人間の数だけ「性」が多様にあるということを示している(注1)。

このことは、異性愛・男女二元制・性分業を内包するカップル単位的なあり方(異性愛中心主義、規範化=“普通”“自然”“正常”)をそのままにして、「同性愛など性的少数派もあっていいよね、認めるよ」という「付け加え」で済む話ではまったくないということなのだが、通常、この点が自覚されていない。性的マイノリティを「見えない存在」「例外」「異常/病気」「変態」としてきた多数派のあり方(異性愛主義・ヘテロセクシズム=ただ一つの正しい性のあり方、本質主義)こそ問われているが、そのことを自覚しているものは少ない。「ホモフォビア」は、したがって直接的な意味(同性愛嫌悪)だけでなく、性的マイノリティの提起しているものを見ない/考えないようにするという形でも、広範囲に、つまりより本質的に存在していると思う。

異性愛者は、自分が異性愛者だとさえ考えていない。つまり、多数派は自分を多数派だとさえみていない。そういう意味で、まさに多数派の側の問題なのだ。自分のようなあり方が唯一の自然ではないという自覚は、つまりマイノリティの存在の自覚は、変化の第一歩だ。だが多くのマジョリティは、自分の自然・普遍性を疑わない。ホモフォビアの原初はそこにある。

マイノリティの人権を考えるには、マジョリティの人権の豊かな展開がいるし、そのためにはマジョリティ自身の抑圧性、差別性に自覚的になって自分のマジョリティ性を解体していくことが必要だという話なわけで、「ホモフォビアをなくす」とは、そうした多数派自身の解放の意味で理解されていく必要があるということを、まず確認しておきたい。これは、「外国人、部落民、障害者、病気、高齢者、子ども・・・」というくくり方を誰がし、どのような視線で語っているのかということ自体が問われている(上からじゃダメってこと)という問題。
さらに、マジョリティの各人が自分の「性」「多数派としての男女二元制・ヘテロ性」を見つめるということは、同時に、マイノリティも含めたあらゆる人が自分の「性」「男女二元制への自分のスタンス」「ヘテロ性・カップル単位制・恋愛制度・結婚制度への自分のスタンス」などをみつめ、自分の権力性・加害者性・マジョリティ性をみつめるということでもある。

それの意味するところは、実はなかなか深いところで、私は徐々にわかりかけてきた(いまだ途中だ)。各人が自分の「性」をみつめるとは、例えば、私は自分が「男性である」とか「異性愛である」という自覚の中に揺らぎを見出し、自分のそれと他者の「男性」「異性愛」との違いをみつめるような感覚に至ることだとわかってきた。つまり、こうしたほんとうに多数派の人それぞれも実は、一人一人異なる人であり、単純に多数派とはくくれない、男性とはくくれない、という、シングル単位感覚へ至ることこそ大事なんじゃないかってことだ。 

結局、これを短く言うと、自分らしい、他者と異なる「X」の「性」としての自分になっていくということだ。換言すれば、自分のなかに「複数の性」、マジョリティの面とマイノリティの面、複雑性・複数性・流動性をみるということであり、私の感覚で言えば、繊細に自分の中の“声”をみつめるというスピリチュアルかつシングル単位な感覚にいたることになる。
そうして突き当たる「自分の“自由なあり方”とはなにか?」という問いを抱え、自分の〈たましい〉に向き合っていき、それを模索する旅に出て行くような生き方こそ、マジョリティ性の解体だと思う。

そうした〈スピリチュアル・シングル主義〉的な個々人が、他者と「ジェンダー二元制・恋愛物語・家族物語」をこえてどのようにつながっていくか。他者に、ステレオタイプ役割を押し付けない/期待しないで、他者のそのままの“声”=〈たましい〉に耳を澄ますことが先ず第一歩。

さらに、「自分と他者の多様なあり方の模索」ということで、ジェンダー的な固定的ステレオタイプ関係から、“新しい関係”、すなわち、シングル単位の恋愛・家族論・友情論・自立論・仕事論・親子論を構築して実践していくことがいると思っている。

昨今のジェンダー・フリー・バッシングは、「フェミニズム・クイアスタディ・性的マイノリティの解放運動」が単なる男女平等ではなく、ジェンダー二元論・結婚制度(カップル単位制)と結びついたナショナリズム、ミリタリズム(国のために闘う男/それを支える女)に対抗する思想であることを見抜いたがゆえに、それを障害物として叩きにきているものである。それは、理論的には、「ホモフォビア」と「ジェンダー・フリー・バッシング」が同じベクトル上のものであるということを理解して、対抗していかねばならないということを意味している。

多数派が、自分のマジョリティ性を省みようとせず、居直ったとき、つまり、“自然”の名の下に、思考を停止して、国家や家族や伝統の物語を美化する陳腐な大声を出しはじめ、多様な違いを許容しなくなったとき、それを「非国民非難のナショナリズム」と呼び、「ホモフォビア」とよび、また「ジェンダーフリー・バッシング」と呼ぶ(注2)。

こんな時代だからこそ、各人が「私は“男らしく”なりたいのではない」「私は“女らしく”なりたいのではない」といえるようになることが大事なのだと思う。私がなりたいものは、そうした鋳型ではなく、私の個性が発揮できるようなスペシャルな「X」だからである。市場で勝ち残るエリートとしての私でも、国家や家族といった共同体に溶け込む私でもない、「非暴力的な、エンパワメント的な、多様性的な、シングル単位的な、スピリチュアルな、多様な私」になっていきたいと思う。それが「ホモフォビア」しない “私”なのだと思う。

(注1)
いわゆる性的マジョリティと性的マイノリティ以外に、一応ネイティブ女性/男性だが、身体の様子が典型的な女性/男性を基準とすると少し外れている人、「身体の性」と自分の性自認が基本的には一致しているが、男/女という枠を超えた「X」という性のように生きている人/生きたいと思う人、異性愛が基本だが、部分的にそうでもない傾向も持っている人、トランスセクシャルで性を「転換」した上でヘテロとして今の社会に適合していく人、さまざまな性的嗜好のうち少し「例外」的な人など、多様な「中間派」のあり方もある。根本的には、性的マジョリティと性的マイノリティの中にはそれぞれ、個人的な差異があり、誰一人として同じ「性」の人はいない。

(注2)
ジェンダーフリー・バッシングに対抗するものとして、伊田広行『続・はじめて学ぶジェンダー論』(大月書店、2006年3月)と日本女性学会ジェンダー研究会編『Q&A 男女共同参画/ジェンダーフリー・バッシング 徹底反論』(明石書店、2006年5月)をつくりました。ご参考になれば幸いです。また浅井春夫・他『ジェンダーセクシュアリティの教育をつくる』(明石書店、2006年4月)、木村涼子編『ジェンダーフリー・トラブル』(現代書館、2005年12月)もバックラッシュをちゃんと批判したいい本だと思います。