ホモフォビアについて(詳細)

ホモフォビア(homophobia)とは、一言でいえば、同性への愛情、同性との性行為あるいはそのような行為をする人々、同性愛者、同性愛者としての生のあり方などに対して非合理な恐怖心を抱く、同性愛恐怖・同性愛嫌悪の症状のことです。

かつて、同性愛は病気の一種だとみなされていました。
同性愛を病気だとみなすことは、一方で、同性愛行為それ自体を犯罪として取り締まったり、それを道徳的な罪として糾弾したりすることに反対する根拠ともなりました。けれども他方で、同性愛を病気とみなす限り、いずれにしても「悪い」のは同性愛・同性愛行為・同性愛者であり、それを「なおす」べきだとする考え方そのものは、変わることがありませんでした。

残念ながら、1990年に「同性愛は病気ではないこと」がWHOによって公式に認められたにもかかわらず、現在でも、同性愛・同性愛行為・同性愛者は「悪い」のであって「なおす」べきだとするその考え方は、強く残っています。

ホモフォビア」という言葉は、「悪い」のは、「なおす」べきなのは、同性愛ではない、という考え方に基づいています。同性愛・同性愛行為・同性愛者は治療すべき症状ではない。それらに対して嫌悪や不安や拒否反応を示すことこそがホモフォビアという「症状」なのであり、なおさなくてはならない問題なのだ、と考えるのです。

また、そもそも「フォビア」とは、「恐怖」症のことです。
同性愛・同性愛行為・同性愛者を、嫌ったり、嘲ったり、差別したりする「理由」がさまざまに言いたてられているとしても、それらはすべてただの口実にすぎません。いかに理性的・合理的な判断に基づくかのように見せかけられていたとしても、それらの嫌悪や嘲笑や差別は、嫌悪し嘲笑し差別する人が同性愛・同性愛行為・同性愛者に対するいわれのない恐怖にとらわれている証拠でしかないのです。

私たちは、そのような自覚をうながすものとして、「ホモフォビア」という言葉をつかいたいと思います。

ホモフォビアは、私たちの社会のさまざまな側面で、さまざまな形をとって、あらわれています。

たとえば、身体的な暴力や脅迫という形で。同性愛行為を行うこと、あるいは同性愛者であること、あるいは同性愛者を思わせるような振る舞いや外見をしていることなどを根拠とした、いじめや暴行などの私的な暴力、あるいは警察などによる公的な暴力は、世界中で、日本でも、続いています。
たとえば、法律上の権利の侵害という形で。日本では、同性のパートナーは、異性パートナーには認められる婚姻や相続などのさまざまな権利を剥奪されています。
たとえば、社会生活上の不利益という形で。同性パートナー同士で家を借りたり、旅館に泊まったり、互いを保険の受取人に指定したりすることは、法律で禁じられているわけではないにもかかわらず、いまだに容易ではありません。
たとえば、日常にであうさまざまな言動において。同性愛・同性愛行為・同性愛者を嘲笑するような冗談、同性愛に対する嫌悪や侮蔑の表明、同性愛者は当然に何らかの引け目や負い目を感じるべきだという思いこみなどに、私たちは日々取りかこまれていますし、それに参加していることさえあります。

同性への愛情を抱く私たち、同性愛行為をする私たち、同性愛者と自覚する私たちは、社会システムや日常生活のあらゆる側面に顔を出してくるそのようなホモフォビアに、日々かこまれて生きています。その結果、私たち自身多かれ少なかれホモフォビアを内面化してしまい、それがいかに不当なことであるかを自覚できないことすらあります。
同性への愛情を抱くようになるかもしれない私たち、同性愛行為をするかもしれない私たち、同性愛者と自覚するようになるかもしれない私たちにとっても、それは同じことです。

私たちは、法によって、社会生活上の不利益によって、日常生活に顔を出す思いこみや偏見に基づく言動によって、同性への愛情を抱き、同性愛行為をし、あるいは同性愛者として生きる自由と権利とを奪われているのです。

すべての人が異性愛者であることを当然の前提としている社会、異性愛を規範とする社会では、そうでない生のあり方は、単なる例外として否定され、異常なものとして見下され、あるいは誤ったものとして糾弾されます。
異性愛規範は、ホモフォビアに支えられ、そしてさらなるホモフォビアを生み出し続けているのであり、私たちはそのような社会のあり方に反対します。

このような規範を支えているのは、ホモフォビアだけではありません。
ホモフォビアジェンダーセクシュアリティに関わる現在の規範を維持するための機能の一つであり、同じような機能をもつミソジニー、トランスフォビア、レズボフォビア、バイフォビアなどと連動しながら、全体として、現在の規範にあてはまらないような生のあり方を否定しようとしているのです。

ミソジニーとは女性嫌悪症のことです。いわゆる「男女差別」として機能するだけではなく、たとえば「ゲイ男性はオンナと同じ(なので、オトコより劣っている)」、あるいは「ゲイ男性はオンナを相手にしない(ので、異性愛男性より優れている)」などという考え方としてあらわれることもあります。

トランスフォビアとは、トランスセクシュアルトランスジェンダーに対する恐怖症のことです。法律上与えられた性別とは違う性で生きること、あるいは法律上与えられた性別のものとされている役割や外見を拒否したり、他の性別のものとされている役割や外見を引き受けたりすることを、否定したり嘲笑したり糾弾したりするのが、トランスフォビアです。

レズボフォビアとは、レズビアンに対する恐怖症のことです。男性同性愛関係・ゲイ男性に対するフォビアと重なるところも大きいのですが、女性同性愛関係・レズビアン女性に対してのフォビアには、ミソジニーがより強くはたらきます。その結果、レズボフォビアはしばしば、「オンナ同士の関係はどうせ本気ではないから真剣にうけとめる必要はない」というように関係や性のあり方そのものを黙殺する、あるいは女性同性愛関係を男性のポルノグラフィックな興味の対象としてしか考えない、などの形をとってあらわれます。

バイフォビアとは、バイセクシュアルに対する恐怖症のことです。愛情の対象や性愛のパートナーの性別を一つに特定しない人、あるいはそのような生のあり方を、否定したり糾弾したりするものです。明確に二つにわけられた性別に従ってパートナーを決定することを要請する点で、バイフォビアはトランスフォビアとも関係しています。

これらのフォビアは、それぞれ独立してはたらいている場合もあります。
従って、ホモフォビアに反対している人がミソジニーやバイフォビアをかかえていたり、バイフォビアに反対している人がトランスフォビアをかかえていたり、ミソジニーに反対している人がホモフォビアをかかえていたりすることも、あります。

けれどもまた、これらのフォビアは、ジェンダーセクシュアリティにかかわる規範に従わない生のあり方を否定するべく、互いに連動し補完しあっても、いるのです。
ゲイ男性に対する差別や偏見は、ホモフォビアと同時に、トランスフォビアやミソジニーによっても、支えられています。
レズビアンに対する差別や偏見は、レズボフォビアと同時に、ホモフォビアミソジニーやトランスフォビアによっても、支えられています。
トランスジェンダートランスセクシュアルの人々に対する差別や偏見は、トランスフォビアと同時に、ホモフォビアミソジニーによっても、支えられています。
バイセクシュアルに対する差別や偏見は、バイフォビアと同時に、ホモフォビアやトランスフォビアによっても、支えられています。

従って、私たちIDAHO Japanは、ホモフォビアと同時に、ミソジニー、トランスフォビア、レズボフォビア、バイフォビアなど、特定のジェンダーセクシュアリティのあり方のみを承認し、それ以外の生のあり方を否定するようなあらゆるフォビアに対して、反対を表明していきます。